インタビュー | Rie Miyazaki

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Rie Miyazaki

「彼女はロックやろ!」田畑満にベーシスト・宮崎理絵について尋ねると、彼は笑いながらそう言った。「他に何か言うことあるん?」

Acid Mothers Templeの主要メンバー田畑は、1980年代にギタリストとしてそのキャリアをスタートした(後にベーシストに転向)宮崎理絵の数多くの共演者の一人だ。最近で言えばドラマーの渡邊 靖之、キーボードとボーカルのYumi Haraらと共に二人が組んだインプロサイケバンドMammal Machineが挙げられる。

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彼女はまた、幻のスーパーバンドHeavy Metal Glueの中心人物でもあり、ドイツのミュージシャン達と共に Instant Drone Factory でも活動し、ダモ鈴木とも数多く共演。

また、The Deviants の Mick Farren やアルバム「ローマ法王とマリファナ」で知られるDavid Peel の来日ツアーをサポート。さらに1990年代後半からはベーシストとして、伝説的な日本のサイケデリック・バンドMarble Sheepで松谷健と共に活動していた。

40年にも及ぶキャリアの上で、数えきれない程のバンドを見てきたこの恐ろしい程パワフルなギタリスト、松谷健はこう賞賛する。

「彼女はまったく人の言うことをきかずに、笑いながらデカい音で弾くんだよ。」

彼女の経歴は自身の多くのプロジェクトや他のアーティストとの共演で次第に深みを増し、ロックのために生まれてきたと言うしかないような、一人のクリエイティヴなミュージシャンの姿を描き出す。

数々の参加作品に耳を傾ければ、彼女がいかに適応力のあるプレイヤーなのかがわかる。更にそこには、彼女の独特なベースのうねりが常に表れている。それは彼女の足下で、目と鼻の先に山積みされた巨大なキャビネットを通し、Gibson SGから放出されるエネルギーの塊だ。

「彼女はグルーヴあるよ!」

他のレジェンド達と同じように、Marble Sheepとの共演を経験した鈴木ジュンゾは言う。

宮崎は我々のインタビューに対し、子供の頃に兄の部屋から漏れ聴こえた70年代ロックを聴いた時から続くロックへの情熱について、丁寧に、かつ全く気取らずに答えてくれた。

あなたが初めて楽器に触れたのはいつ頃でしたか?また最も大きな音楽的影響を受けたのは誰からだったのでしょうか。家族ですか、それとも学校の友達ですか?学生時代は優等生でしたか?

小さい頃から音楽は好きでしたが、楽器となるとどれも三日坊主でした。エレクトーンを習っていましたが、練習が面倒になって「もう弾くのはこりごり」と言うと、母が合唱団に入れてくれました。合唱団はロックに夢中になるまで続けていました。 ロックに関しては、私には兄がふたりいるのですが、10歳年上の上の兄から最も影響を受けました。ある日のこと、兄が突如エレキ・ギターを買ってきて、それからというもの彼は爆音でハードロックのレコードをかけるようになりました。私の部屋は彼の部屋の真上だったので、夜中でも構わず真下からギター・リフの爆音が突き上げてきました。そして私はそれをまったく嫌とは感じず、むしろ大好きになってしまったのです。

兄の部屋にある70年代のロックのレコードを自分は無料で聴いていたのだから、こんなに恵まれた環境は他にはないでしょう。

当時、自分と同世代の子達はテレビから流れる歌謡曲しか聴いていなかったのに、兄の部屋にあるレコードは勝手に聞き放題と解釈し、自分は70年代のロックを無料で聴いていたのだから、こんなに恵まれた環境は他にはないでしょう。「私もバンドでギターが弾きたい。」と兄に話すと、「耳コピってのはこうやってやるんだ。」と、曲をコピーしながら兄がギターを教えてくれました。練習を面倒と感じることはもうありませんでした。

バンドを始めてから、洋楽を理解するのに必要な英語以外の勉強はほとんどしなくなってしまいましたが、一夜漬けの試験勉強は苦手ではありませんでしたので、推薦で大学に入ることができました。もっとも、すぐに辞めてしまいましたが。というのも、当時私が通っていた大学は、教授が話す声よりも学生達の私語の方が大きく、講義が何も聞こえないというような酷い状態でしたので。

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Photo: Telle Kumazawa

メインストリートの音楽に満足いかなくなったのはいつからですか?パンク、メタルなどの音楽のどこに惹かれたのでしょうか。アティテュードですか、それとも音楽そのものでしょうか。それらは自分で探し当てたのでしょうか、それとも仲間たちとの情報交換の結果でしたか?

メインストリートの音楽とそうでないものの区別はよくわかりませんが、ライヴハウスで演奏される音楽というものには少なからずこだわってきたように思います。音楽が好き、という以前にライヴとライヴハウスが好き。あと、ライヴハウスいるような人種が好き。高校生の時はほとんどライヴハウスから学校に通っているような時期もありましたし。

ライヴハウスと言っても、今風の整ったスタンディング・ホールのことではなくて、地下がお似合いの薄汚れた薄暗いライヴハウス。爆音とか酔っ払いとか煙とか、何でもありの空間が好き。そこでの交流から何もかもが生まれてきたように思います。やれパンクだ、やれメタルだ、という風にジャンルで音楽を考えたことはあまりないです。

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BEATRIX. Photo: Takaaki Ono

現在のプレイスタイルに決めたターニングポイントは何でしたか?テクニック的な部分と音色的な部分、どちらに興味を持たれたのでしょうか。また誰かの真似ではなく、あなた自身の表現を始めた時のことを教えて頂けませんか?あなたは何故ベースを選んだのですか?最初はギターの方が好きだったりしましたか?

最も大きなターニング・ポイントは、やはりギターからベースにコンバートしたことです。ベースを弾き始めたのはつい最近のことかと思っていたら、実はもう15年以上になるのでびっくりです。ベーシストとしては出遅れたスタートなのだから、まともに練習したところでどうせ一生出遅れのままだ、と考えて、音色的にもテクニック的にもベーシックなことにはこだわらずに演奏してきたのが今の結果。好きなベーシストのフレーズをコピーして練習したこともありません。

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Marble Sheep & The Run Down Sun’s Children in 1988

ギター時代もリード・ギターはあんまり得意ではありませんでしたので、ギターの人がベースを弾く時によくありがちのリード・ベースにはなりませんでした。かわりに、ギター風のピッキンングとグリッサンドを多用して変な風に弾いてみたことで、わりと個性が出たように思います。ベースを始めたのは、Marble Sheepのメンバー・チェンジがきっかけで、自分からやろうと思ったわけではありませんが、今ではベースにコンバートして本当によかったと思っています。弦が少なくなった分、リズムに集中して踊れますから。

ギター時代もリード・ギターはあんまり得意ではありませんでしたので、ギターの人がベースを弾く時によくありがちのリード・ベースにはなりませんでした。

初の音源は1984年だったと思われますが、その後95年からはMarble Sheepに参加されていますね。Marble Sheepはどのように結成され、そしてあなたはどのようにして参加されたのでしょうか。その頃他のバンドでプレイされていたのでしょうか。

私がMarble Sheepに参加したのは1999年の再結成以降ですので、バンドがどのように結成されたかをお話することは残念ながらできませんが、私とMarble Sheepとのファースト・コンタクトは、1988年で、自分が高校生の時でした。夏休みの旅行先の大阪で、偶然彼らのライヴを見たのですが、初期Marble Sheepの混沌としたサウンドは、自分に壊滅的なインパクトとショックを与え、私は瞬時にサイケデリックとは何かを悟ったように感じました。

その10年後、1998年のある日、セカンド・コンタクトが訪れました。Marble Sheepのリーダー松谷健が、私の働いていた音楽スタジオにやってきたのです。彼のバンドは当時、活動休止中でしたが、彼は自身のレーベル、Captain Trip Records所属のバンドのミキシングのため、頻繁にスタジオを訪れていました。10年前のファースト・コンタクトの話題等から会話が弾み、私達はすぐに仲良くなりました。そしてその翌年、Marble Sheepは活動を再開、1999年の終わりには再結成ライヴを実現させました。そしてラッキーなことに、この歴史的なライヴに、マービー(=大きな羊である、Marble Sheepの着ぐるみマスコット・キャラクター)としてステージに立つことができたのです。

Marble Sheep以前の活動としては、BEATRIXというバンドでギターを弾いていました。BEATRIXは女性ヴォーカルのハードロック・バンドで、音源としては2本のカセットと1996年に4曲入りのCDを1枚、自主でリリースしました。

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Photo: Takaaki Ono

Marble Sheep はメンバーも音楽形態も様々に変化してきました。あなたもアルバム毎にギター、ベース、そしてボーカルと別々のパートを取っておられますが、そういったフレキシブルな形態については当時どう感ておられましたか?また栗原ミチオ氏やMasaki Batoh氏とセッションする機会はありましたか?どのアルバムが1番気に入っておられますか?また、在籍時の記憶に残る体験を教えて下さい。

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Marble Sheep lineup on Message from Oarfish album (L-R) Rie Miyazaki, Iwamotor, Ken Matsutani, Morihide Sawada, Brown Nose No.2. Buy CD here

Marble Sheepでギターやベースは弾きましたが、ヴォーカルに関してはバッキング・コーラスをとった程度です。メンバーはアルバムを出す度に違っていましたが、したくてそうした訳ではなく、そうなってしまっただけです。メンバー・チェンジは毎度悩みの種でした。せっかく作り上げたグルーヴが、またゼロになってしまうのですから。

ゼロではないでしょう、と思われるかもしれませんが、そのくらいMarble Sheepはグルーヴや、メンバー同士の呼吸を重視して練習をしていたということです。

Marble Sheepの混沌としたサウンドは、自分に壊滅的なインパクトを与えました。

活動をフレキシブルにする目的で、ライヴやツアーによっては、ギター、ベース、ドラムのトリオ編成で演奏したことは確かにありました。常に2台のドラム・セットの手配を考えて活動するのは大変でしたから。

栗原ミチオ氏やMasaki Batoh氏とは在籍時期が異なるため一緒に演奏したことはありません。一番好きなアルバムは、自分は演奏していませんが「WHIRL LIVE」です。

在籍時はMarble Sheepとしてのライヴ活動以外にも、英国アンダーグラウンド・サイケ界の重鎮バンドDeviantsのヴォーカリストMick Farren氏と、「ローマ法王とマリファナ」の発禁事件で知られるニューヨークのストリート・パンク・ロッカーDavid Peel氏が来日の際、彼らのバック・バンドとしてMarble Sheepのメンバー+ゲスト・ギタリストの編成でツアーを行いました。2003年のDavid Peel氏とのツアーはかなり破茶滅茶で大変でしたが、ツアー最終日の名古屋でのライヴは最高で、苦労も何もかも吹き飛ばしてくれました。[CD available here]

2004年のMick Farren氏とのツアーは生涯忘れることのない私の宝物です。

2004年のMick Farren氏とのツアーは生涯忘れることのない私の宝物です。当時この話がきた時、自分はベースを弾き始めて数年しか経っていなかったので、大御所ミュージシャンに迷惑をかけてはなるまい、ガレージ・ロックのグルーヴを何としても出さねば、と必死で練習しました。

ひとりで日本にやってきて、いきなり日本のバック・バンドとツアーに行くのだから、Mick Farren氏ご本人もやはり不安だったと思うのですが、そんな素振りは一切見せず、すぐに私達を信じてくれました。このツアーの音源がCDとしてリリースされたことは本当に幸せですし、光栄に思っています。残念ながらMick Farren氏は2013年にDeviantsのライヴ中に心臓発作で倒れ他界されましたが、私達のサイケ親分として心の中で永遠に生き続けるでしょう。

あなたはMarble Sheepと共に何度も海外ツアーをされていますが、それは楽しいものでしたか?それとも単なるルーチンのようなものでしたか?またアメリカ、ヨーロッパ、日本で、ライブの楽しまれ方の違いを感じることはありましたか?

Marble Sheepでの海外ツアーは毎回とても楽しいものでした。毎日毎晩、機材を下して組み立てて演奏して車に積んで移動する、というルーティーンはもちろんでしたが、泊まる場所にしても移動にしても、良きにせよ悪しきにせよ、毎回何かしらありエキサイティングでした。お客さんの入りや物販の売り上げも日毎まちまちで安定していませんでした。大変なこともありましたが、メンバーとツアーを一緒に回ってくれた仲間、そしてビールのおかげでいつもハッピーでした。

自分はアメリカで演奏したことはありませんが、ヨーロッパに関しては、オーディエンスが日本の倍以上の割合と度合で酔っぱらっていると感じました。音楽もうるさければ、お客さんもバカ騒ぎ。きちんと音楽を聴いてほしい、と考える日本のミュージシャンは困るかも知れませんが、私達がそんなことを気にするわけもなく、メンバー誰もが楽しんで演奏していました。日本にはライヴの打ち上げという文化があるせいか、ライヴハウスでは大人しくドリンク・チケットの1杯分だけ飲んで、ライヴが終わった後に居酒屋で飲もう、と考えるお客さんが少なくありません。そのせいでライヴハウスが儲からず、貸ホール化してしまうのです。ライヴハウスで飲めばいいのに、と私は思うのですが。悪循環ですよね。

Marble Sheepのいくつかのレコードはドイツで録音され、また(確かにベルリン発の)、Instant Drone Factoryプロジェクトにも参加されていたと思います。あなたはドイツの音楽との強いコネクションを持っているのでしょうか。また、Instant Drone Factoryに参加した経緯を教えて下さい。

私ではなく、リーダーの松谷健がCaptain Trip Recordsのレーベル・オーナーとして、数多くのドイツ音楽のCDをリリースしていたため、ドイツとのコネクションを多くもっていました。そのおかげで、Marble SheepはドイツのレーベルからCDをリリースし、ツアーもドイツを中心に回ることになりました。

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Instant Drone Factoryに参加したのは、クラウトロックの代表バンドGuru GuruのリーダーMani Neumeier氏のお誘いで、2002年にMarble Sheepが南ドイツのFinkenbach Festivalに出演したことに遡ります。この時のMarble Sheepの記事がMoonheadというドイツの音楽雑誌に掲載され、私のステージ写真がその号の表紙になったのですが、この写真を撮影し記事を書いてくれたのがInstant Drone Factoryのリーダーです。2006年に北ドイツでの音楽フェスに出演した際に、彼のバンドも出るのでベースを弾かないかと言われ参加しました。

録音もできればやりたいとのお申し出があったので、ハンブルグのElectric Avenue Studiosでのレコーディングにも参加しました。ミックスに関してはリーダーにお任せでしたし、Instant Drone Factoryとして私が参加したライヴは、実は即興で演奏したそのフェスでの1度きりなのです。

Instant Drone Factoryについて、あなたのプレイスタイルはmetalpunkといったものから徐々に実験音楽やスペーシーなものへと変化を遂げています。音楽の好みが変わってきたのでしょうか。また、そういった実験的な、即興的な音楽を試すきっかけになったのは何でしたか?またMammal Machineもその例だと思います。質問ですが、そういったスタイルの変化はそれぞれのバンドでのセッションの結果なのでしょうか。それとも常に次の音楽を探し続けている結果なのでしょうか。

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MAMMAL MACHINE

音楽の好みが特に変わったのではなく、即興演奏やワンコードを軸にしたドイツロックの影響を受けたせいです。それぞれのセッションが、というよりは、即興演奏をするようになったこと自体が、演奏を変化させたのだと思います。ギタリスト時代の自分には即興で演奏するなどまったく考えられなかったのですが、Marble Sheepは即興パートを曲に組み込んで演奏することが多く、初めのうちはどうしてよいかまったく分からず、ただひたすらメンバーについていきました。

その後、ドイツ在住の日本人ミュージシャンDamo Suzuki氏とのコラボレーションでも知られるギタリストMONDOG (宮下敬一)君や、彼の仲間のミュージシャンらとの交流から、即興演奏にチャレンジする機会が徐々に増えてきました。即興での最初のステージは、宮下君にお誘いいただいたDamo Suzuki氏との仙台公演でした。その後も何度かDamo Suzuki氏と一緒に演奏していますが、今考えると恐れ多い即興デビューです。

Mammal Machineのアルバム「Mitsugi」は完全に即興で演奏された音源を私が曲にまとめあげ、ヴォーカル&キーボードのYumi Haraさんと私とでそれらに曲名を付けました。ライヴで演奏する度、Yumi HaraさんやギターのMitsuru Tabata君のインパクトのある演奏に圧倒されましたが、ドラマーの渡邊靖之君がMarble Sheepの卒業生なので、リズムの面ではMarble Sheepの延長線上でしたので、同窓会気分で落ち着いて演奏することができました。

Heavy Metal Glueは何故これ程まで世界で知られていないのか不思議なほど、White Heaven Ken IshiharaChurch of Misery、のYoshiaki NegishiMarble SheepKen Matsutaniといった凄腕が名を連ねていますね。あなたは、海外のリスナーの好みの違いや聴かれ方で不思議に感じることはありますか?またHeavy Metal Glueでの今後の活動について教えて下さい。

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HEAVY METAL GLUE: (L-R) Rie Miyazaki, Ken Matsutani, Yoshiaki Negishi, Ken Ishihara

Heavy Metal Glueは2011年に約1年間活動し、その間に変形ジャケのカセットを1本リリースしたのみですので、どこそこのメンバーが参加、という売り文句がいくらあっても、実際に活動していなければ、やはり知名度は上がらないものです。Yoshiaki Negishi君がリスナーを惹きつけるのは、元Church of Misery だからではなく、彼自身が現在進行形の素晴らしいパフォーマー&ヴォーカリストだからだというのは、彼の今のバンドNepenteth を観ても一目瞭然かと思うのです。

Negishi君は丁度この頃、Church of Miseryを辞めて、本気でNepentethを立ち上げ中でしたし、その他の理由も重なりこのバンドは活動をやめてしまいましたが、Heavy Metal Glueの曲の何曲かは、現在私が参加しているDEEPFREEZEMANIAというバンドで引き継いで今も演奏しています。

DEEPFREEZEMANIAのドラム&ヴォーカルでリーダーのISHII君とふたりでスタジオに入り始めたのもちょうどこの頃です。数年前にギタリストのAJIMA君が加わり、現在は3人でライヴ活動を行っています。このバンドはある意味、自分の活動経歴を真っさらにして、等身大の自分で勝負しようという思いでやっています。音楽的にはかなりヤサグレ系で、Heavy Metal Glueと同様、ラウド&へヴィ―です。

あなたは時々パナマに住んでいますね。どのような経緯でどれくらい住んでいるのか、教えて頂けますか?また海外での生活はあなたの日本に対する見方に変化を与えましたか?

パナマに行ったのは、私の父がJICA(Japan International Cooperation Agency)の専門家としてパナマに派遣された際に、一家で同行したためです。実際に住んでいたのは、自分が2‐3歳の頃だけなのですが、その後も父は何度かパナマに赴任し、私は日本に住んでいたのですが、長い休みの際には両親を訪ね、毎回一か月間ほどパナマに滞在し、その間にたくさんの旅行をしました。パナマでの思い出は何もかも素晴らしいものばかりです。印象的だったのは、我々日本人の5人家族をパナマの人達が見て、「おや、珍しい。家族全員同じ黒い髪と目に、同じ肌の色!」

と言ったことです。混血社会のパナマでは、次はどんな目&肌の色の子が生まれてくるか、みんなワクワクするそうです。そんなエピソードが自分の一番古い記憶に残っているせいか、みんなと違うと変じゃないかしら、と常に見た目を気にするような日本の風潮は苦手です。母に連れられパナマの先住民の暮らすサンブラス諸島を旅したことも貴重な経験です。全てにおいて常に発展を強いられる暮らしが実は不便なものだとういことに、早い時点で気が付くことができましたから。

あなたの経験を通し、海外からの日本のアンダーグラウンド音楽に対する誤解や、彼らが好まないような側面はあったりしますか?

そう言った誤解は10年位前まではあったように思いますが、ネット社会によるグローバル化やジャンルの細分化が進む今、アンダーグラウンドの世界においてもどこそこの国の音楽という見方ではなく、何々のジャンルの何々系の音楽という見方に変化してきているように思います。日本語で歌われない限り、日本の音楽を特徴づけるコレといったものは、もはや存在しないのではないでしょうか。

「日本のサイケ」という言葉を聞いて海外の人達が抱くイメージに関しては、確かに今でも違和感を覚えることがあります。自分がサイケでイメージするのはカラフルなものですが、どちらかと言うとモノトーンでダークな音楽のイメージで使われているように思えます。使っている側ではないのでよくわかりませんが。

あなたは、インディペンデントな音楽がテレビやラジオ等のマス媒体からサポートを受けられないことに対しどう思いますか?憤りを感じますか?全然気にされないですか?むしろそういった状況を好まれますか?またはうんざりしますか?

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With Keiji Ronson from young Parisian (left) and Ken Matsutani

テレビはわかりませんが、ラジオにはMarble Sheep時代に演奏者として、またインディーズ音楽の特集番組のパーソナリティとして、それなりの出演料をいただいて出演した経験が私にはありますから、インディペンデントな音楽がサポートを受けられないと一概に言うことはできません。

けれどもやはり今は、音楽のためにマス媒体が何かをしてくれるケースは減ってきていますよね。結局、日本のテレビやラジオで積極的に取り上げようとするのは、頑張ろうよ的なメッセージであって、楽曲そのものではありません。みんなで頑張ろうよ的な歌詞が最重要で、音楽性は二の次なことは残念です。

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3.11の震災以降、その傾向はますます強くなっていると思います。震災時は自分も相当ショックを受けました。あんなに悲しい気持ちで春の桜を見たことはありませんでしたし、今まで自分には持ち合わせていないと思っていた愛国心をはじめて自覚しましたが、それを表現することは私の仕事ではありません。

現在進行中の音楽活動について教えて下さい。来年に向けて、何か計画されてますか?

昨年は幸運にも、自分がベースで参加したアルバムが2枚もリリースされました。1枚はプログレ・バンド、Ars Novaのドラマーとして活動中の高橋アキコさんの率いる宇宙ロック・バンドAkiko’s Cosmo Spaceのデビュー・アルバム「Julähsica To This Wonderful Day!」で、もう1枚は松谷健の初のソロ・アルバム「After The Rush」です。「Julähsica~」の方は全12曲中、6曲を演奏、「After ~」は全曲ベースを担当しました。

現在は先ほどお話ししたDEEPFREEZEMANIAの他に、Ken Matsutani and… という名義で活動中の松谷健のバンドに参加し、ライヴを行っています。このバンドで演奏するのは主に「After ~」の収録曲ですが、Marble Sheepの曲を演奏することもあります。

松谷健とは、このバンドの他にもThe Mickey Guitar Bandというスペース・サイケ・インスト・バンドをやっています。このバンドは先月、ライヴ演奏を収録したボックス入りのカセットをリリースしたばかりです。来年はドイツのレーベルE-KlagetoのコンピレーションCDに参加し、同レーベルからアナログ盤がリリースされる予定です。

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Dollhouse Residents (L-R) Yumi Hara, Rie Miyazaki, Emmy Kunocovic Photo: Telle Kumazawa

Mammal Machineは最近活動していませんが、Yumi Haraさんとは年に数回程度ですがDollhouse Residentsという女性メンバーによるインプロ・バンドで一緒に演奏しています。

Akiko’s Cosmo Spaceは現在、来年のライヴ活動に向けて準備中です。実はこのバンドで、来年5月にフランスのマルセイユ北部で開催されるプログレ・フェスに出演することが決まっています。このバンドの楽曲は変拍子や展開が非常に多いので、かなり練習が大変なのですが、久しぶりの海外での演奏ですのでとにかくとても楽しみです。

今のところこの渡欧に関しては、このフェスでの1本しかライヴは決まっていませんが、個人的にはもしもチャンスがあれば、ヨーロッパのミュージシャンとセッションできればと考えています。それから今、大学でドイツ語を勉強していることもあり、できればドイツにも少し行きたいです。

演奏はしてもしなくてもどちらでもいいけれど、とにかくビールが飲みたいのです。

For more releases featuring Rie Miyazaki, check out Captain Trip Records.

Top Photo: Sachiko Fukuoka. Interview by Beige Baron. Translation by Laura Chan with Yoshi.


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