石原洋 [Ishihara You]

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You Ishihara, recent live photo

— Story by The Beige Baron. Translation by memetabla

ENGLISH VERSION

日本には湿布(しっぷ)というものがあって、首や背中に貼っておくと痛みがやわらいでいく。

White Heaven も同じような効能がある。ただし、魂に対して、だ。 1989年に発売された彼らの1st アルバムであるOutをセットすれば、石原洋の不明瞭な歌声や崩れたギターのコードが魂の傷口に染み込んでいく。

栗原ミチオが浮遊するギターで傷口を塞げば、またそこにしなやかなベースラインが合わさり、ドラムが的確に修復のサイクルを回していく。 生の実感。そしてソファに深く腰かけ、もう一度その音の効能にどっぷりと浸るために再び再生ボタンを押すことになるのだ。

貼るカイロやカップラーメンみたいな他の便利なアイデア同様に、White Heavenのオリジナルなアイデアも恥ずかしげもなく真似され続けている。

まぁ彼ら自身もルーリードとマークボランに2~3杯奢らないといけないかも知れないけれど。 しかし、誰1人として彼らの芯の部分、風に揺られてたゆたう蝶のような彼らの本質の部分を盗めた者はいない。

石原の液体のように流動的なコードが燃え上がり、栗原が愛撫する ー

そして彼らの録音はまるで、空っぽの洞穴の中、何百万kmも先での演奏を聴いているようだ。 このズキズキするメロディ。孤独と憂鬱が出どころ不明のドローンのように鼓膜の中でこだまする。

そしてライブでの演奏は圧巻で、まるで怒れる巨人のように反逆的で圧倒的な表情を湛えながら全てを飲み込んでいく。

もっとシンプルに言おう。 もしもWhite Heavenや、その周辺のHigh Riseや不失者達ほんの一握りのバンドがいなかったとしたら、僕たちが知っている”ジャパニーズアンダーグラウンド”ロックシーンは存在しなかった。それは彼らが30年前に作り上げたものだからだ。

人々がBilly Idol(ジェネレーションXのボーカリスト)やBoy George(カルチャークラブのボーカリスト)を聴いていた時、彼らは誰もいないステージで演奏していた。

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White Heaven, 1990

彼らは、日本のポップスター達ですらU.S.でただの1枚のコンサートチケットすら売れなかった時代に、海外をツアーして回った。

そして手に負えない集団だったWhite Heavenの崩壊後、石原はやっとその存在を国内でも知られることになるThe Starsを結成し、また同時にレコーディングプロデューサーとして働き始め、ゆらゆら帝国やBoris、Ogre You Assholeといったバンドを手がけることになった。

White Heavenはどのように結成されたのか。その時何が起きていたのか。 石原洋は、これら広範にわたるぶしつけな質問に対して語ってくれた。

BNU: あなたの人生に大きな変化をもたらした最初の音楽的な経験は何でしたか?ご両親が何か音楽をされていたのでしょうか。

幼少時、居間には家具調のステレオセットがあり、どこの家にもあったような西部劇のサントラ音楽や、クラシック、子供向けのカラフルなピクチャーレコードなどをよく聴いていました。両親は特に音楽好きだったわけではなくごく平均的な家庭だったとおもいます。小学生の頃は天体観察と野球が好きで聴く音楽も当時の歌謡曲など普通のものでした。

最初期、80年代中頃のWhite Heavenは70年代ニューヨーク・パンクとサイケデリック、フリーフォームのアマルガムのようでした。

中学1年のとき深夜ラジオで洋楽に接したのが最初の変化だったかもしれません。その頃流行っていたのはT.REXでした。「イージー・アクション」の狂騒的なリフとマーク・ボランの声に今まで聴いた事のないインパクトを受けました。

高校時代、あなたはどうやって日本のオルタナティブミュージックシーンに気付きましたか? メディアはメインストリームの音楽以外に対してそれほど大きな注意を払っていないことは理解しています。あなたはどうやってそれを見つけたのでしょう。誰かと共に探されたのでしょうか?

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White Heaven, live 1986.

高校時代はちょうど海外でパンクが勃興しはじめた頃で、「日本のオルタナティブミュージックシーン」とよばれるものはまだ無かったか、あったとしても気づきませんでした。そういったアンダーグラウンドなシーンが日本にもあると気づいたのは大学生になった70年代末から80年代初頭ですね。輸入レコードショップに置いてあるミニコミやややマニアックな雑誌等を通して知りました。でも特別興味を持ったというわけではありませんでした。

あなたがWhite Heavenで制作されたアルバムは、後続の人たちにとって今や一つの指針と見なされています。あなたに、作曲に対してのインスピレーションを与えたものは何だったのでしょう。 90年代の日本において、あなたの音楽はどのように受け止められたのでしょうか。 また、25年が経過した現代において、インターネットの力によって海外の人達がそれらの音源を発見し、多くの人がそれを喜んでいることに対してあなたはどう感じますか?

10代の頃は自分が演奏する事になるとは思ってもみませんでした。単に聴いた事の無い未知の音楽を探すことのみに執心していて楽器を演奏する事自体にほとんど興味が無かったです。自分で楽器をいじるきっかけになったのはやはり70年代のパンクなどの動きでした。

最初期、80年代中頃のWhite Heavenは70年代ニューヨーク・パンクとサイケデリック、フリーフォームのアマルガムのようでした。オリジナル曲がまだ少なかったのでピンク・フロイドの「Interstellar Overdrive」やModern Lovers,、Cramps、Litterのカヴァーなども演奏していました。最初はそういったジャンルの音楽からインスピレーションを得ていたとおもいます。ただ、当時のメンバーは全員技術的には素人同然、演奏能力の上達にもあまり興味がなかったので出来るタイプの曲は限られていました。求めるイメージのみが肥大してそれを具体化する術が無かったのでしょう。

_MG_864790年代、ファーストアルバムをリリースした頃ですが、500枚限定のそれもアナログのみだったのでほとんどメディアに載る事も無かったですね。インターネットも無かったですし。売り切るのに最低5年はかかるだろうと想像してましたがPSFがサンプル盤を海外のディストリビューター各社に送ったら何故かそれぞれ100枚単位の注文が来てあっという間に売り切れて驚きました。日本で売れたのは100枚ぐらいかもしれません。

現在、海外の人達が僕らの音楽を楽しんでくれているのは素直にうれしいですが、それは多分僕が当時望んでいた事とは少し違う気がします。

PSFとの契約をした時、あなたにとって何かが変わりましたか? レーベルメイトとの関係は、家族のようなものだったのでしょうか。

ただ何を歌ってるのか不可視化したかった、隠したかったというのはあります。

レーベルと契約をしたという意識は無くて、生悦住さん(PSFオーナー)が出したいというのでリリースしたということです。その時点でもう何年もやってきたので形として残しておくのもいいかな、という程度だったと記憶しています。実際、その頃はパーマネントなベーシストも不在でバンドはかなりストレスを抱えていたし、いつ解散してもおかしくない、非常に不安定な状況でした。

その頃のレーベルメイトというと灰野敬二や三上寛、ハイライズなどでしょうか。灰野さんとは個人的にも付き合いがあってお互いの家に遊びに行ったり来たりしていました。三上さんやハイライズは何度か対バンしたりして面識はありました。しかしそれぞれがファミリーのように密接だったかというとそうではなかったとおもいます。それは当時の東京のアンダーグラウンドの特徴でもあったようにおもいます。

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The Stars live Kyoto, 2006.

PSFのスタイルのような日本のオルタナティブロックは、欧米の音楽と比べてユニークだと思いますか? また、その違いを、あなたはどのように表現しますか?

質問の「日本のオルタナティブロック」が僕らのいう「日本のアンダーグラウンドミュージック」だとして、なおかつ僕の知っている狭い交遊関係の範疇で言えば、音楽の聴き方と解釈の違いだと思っています。

現在ではどうなのか知らないのですが、80年代~90年代前半に欧米の「意識的な」ロックミュージシャンの中でフリージャズやドイツ・ロック(クラウトロック)、ミニマル音楽や電子音楽などアヴァンギャルドな現代音楽を好むひとは沢山いたと思います。

しかし僕らのあいだではそういったジャンル分けや音や手法の表面的な面白さのみを取り上げて評価するということはしなかったので、そのほとんどを聴いていたにも関わらず「これはいいな」と思えるのはほんの一部でした。

実際、その頃はパーマネントなベーシストも不在でバンドはかなりストレスを抱えていたし、いつ解散してもおかしくない、非常に不安定な状況でした。

逆に、欧米ではそういったミュージシャン達がほとんど興味を示さなかったレコード(ここでは名前をあげませんが、前衛的ではないジャズ、クラシック、ポップスなどの一部)が好まれていました。そういった音楽は僕らの作る音には直接現れなかったかもしれないけれど、もっと根底の部分で共有している感覚としてあったと思うし、影響が直接手法として現れてしまいがちだった欧米のアンダーグラウンド音楽との大きな違いだとおもいます。

もしも誰かに日本のオルタナティブかサイケ、またはエクスペリメンタルなロックを5~6枚紹介するとしたら、あなたは何を選ばれますか? また、それは何故でしょう。

そのひとが「日本のオルタナティブ、サイケ」に何を求めているかによるので、とりあえず70年代から現代までに発売されたマイナーレーベル盤、自主制作盤を片っ端から聴いてみればいいのではないでしょうか。

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The Stars

あなたは何故英語で歌われるのですか?

それが自然だから、と言いたいところですが、実際はそうではないです。バンドを始めた時から外国人に聴かれる事は想定してなかったので海外向けということではまったく無いです。そもそも発音も文法もヒドいものなので判る訳がありません。

ただ何を歌ってるのか不可視化したかった、隠したかったというのはあります。それは、歌詞の内容に関していろいろ訊かれたくないし説明もしたくなかったからです。

もし聴こえて来る単語やセンテンスの中に、なにかひっかかるひとことがあったとすれば、誤解だろうとなんだろうとそれが全てだとおもいます。

あなたの作曲や録音のアプローチはどのようなものですか? 曲が完璧に頭の中で出来上がっておりてくるのか、それとも何か一つのアイデアがあってそれを構築して行くのでしょうか。

作曲にあまり時間はかけないですね。年中憂鬱なので、いいアイデアを思いついても二、三日放ってあるうちに忘れてしまいがちです。録音ではひとつの音の響き方とそれに絡める別の音との関係性を重視します。

maso masonna atsuo boris

Maso [Massona], You Ishihara, Atsuo [BORIS].

あなたのこれまでのキャリアにおいて、一緒に演奏出来たことが最も励みになった、またはインスピレーションを受けたアーティストは誰でしたか?

個人的にセッションや他のバンドに入って演奏した事がほとんど無いので自分のバンドで、という事になります。

最初のギタリストだった坂本哲也と二人でバンドを始めました。二人とも演奏したり練習したりするのがそれほど好きではなく、格別ミュージシャンになりたいともおもわなかったので別に音楽でなくても良かったのです。楽器を持たずに喋ってる時間の方がはるかに長かったし若かったのでぶつかり合いも少なくなかった。彼は他人から借りっぱなしのギターや質屋で1万円で買って来たボロボロのギターを使っていました。White Heaven脱退後、演奏をやめてしまったのも彼らしかったです。White Heavenの3枚のスタジオアルバムのいずれにも彼の曲が収録されています。

楽器を持たずに喋ってる時間の方がはるかに長かったし若かったのでぶつかり合いも少なくなかった。

栗原ミチオは僕や坂本と違って、最初からちゃんとギターの弾けるミュージシャンとしてやってきました。しかし、特異なトーンやフレージングにも増してひきつけを起こしたような神経質なプレイとその速さは、技術でなく彼の内面から出て来るものでした。また、15年ぐらいに渡って僕の言っている事、考えている事を真摯に理解しようとしてくれて、それを出来る限り実践してくれたのは彼しか居ませんでした。

1999年にあなたは再び栗原ミチオと共にThe Starsを結成されました。 The StarsとWhite Heavenでの演奏の違いは何だったのでしょうか。

今、The Starsについて考えてみれば多分演奏自体のダイナミズムとある種の整合感、わかりやすさが欲しかったのだろうとおもいます。

ゆらゆら帝国はよくWhite Heavenを対バンに誘ってくれていました。

White HeavenがThe Starsになって、ライブの動員に反比例して失われてしまったもの、それが意外に大きかったのは後になって気づくことになります。

あなたはどのようにして制作の仕事に就くようになったのでしょうか。 あなたは何年にもわたり驚くべきバンド達と仕事をされ、またゆらゆら帝国とも非常に近い関係であるように思われます。 彼らとの仕事はどのようなものだったのでしょうか。 また、彼らの音楽のどういったところをあなたは好まれていますか?

ゆらゆら帝国はよくWhite Heavenを対バンに誘ってくれていました。個人的にも坂本(慎太郎)くんとはよく話しをしたりしていたので彼等のレコーディングの際にプロデューサーというか、サウンド・アドヴァイザーのような形で参加して欲しいと頼まれてやるようになりました。何枚か制作して行くうちに自分のバンドではやらないようなより大胆なアイデアや手法も使えるようになり、そのうち彼等の知名度も上がってきて商業的にもまずまずだったので僕としては純粋に楽しめました。

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L-R: Soichiro Nakamura [owner Peace Music Studio], Shintaro Sakamoto [Yura Yura Teikoku], You Ishihara. Pic via RedBull Academy

作業としては彼等の持って来る素材をスタジオで相談しながらもとのイメージに近づけたり、逆にまったく別のテイストを加えていったり、どちらかというとremixに近いやりかただったとおもいます。

それはborisやogre you assholeといった他のバンドをプロデュースするときも同じでした。

ゆらゆら帝国に関して言えば、元々はWhite Heavenの居たようなアンダーグラウンド周辺に居たバンドでしたが、基本的にはもっとポップで柔軟な、大衆性を持ったスタイルを持っていました。

あなたに音楽への興味を維持し続けさせているものは何でしょうか。 全ての手法は試され尽くして、もう新しいアプローチなど残っていないように思われたりはしませんか? また、近頃趣味で聴いている音楽は何かありますか?

それ以外に興味を持てるものがほとんど無かったからです。もちろん、手法、という論点から言えば目から鱗が落ちるような斬新なアプローチは多分今後登場する事はまず無いでしょう。情報が少なかった昔ならいざしらず、世界中の、あらゆる時代のあらゆる種類の音楽が瞬時に参照出来る現代では評価より先に類似性を探してしまいがちです。

youishiharaただ、ものの見せ方、聴かせ方、考えさせ方、という点では僅かながら有効性があるように思えます。ただそれを自覚的に実行するには針の穴を通すようなコントロールと忍耐が必要になるし、今それをやったから報われるとは到底思えません。

最近取り組まれているプロジェクトがあれば教えて頂けますか? ありがとうございます。

年に一、二回、石原洋with friends名義でライブをやったりしてます。

気が変わらなければ、という但し書き付きですが、来年あたり久しぶりに自分の作品を作れるかもしれません。

All three Stars albums plus White Heaven’s Out are available via Inoxia Records, or try discogs.com. You Ishihara website here.


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